毒牙(2)

チャンスは一回だ。このカードが価値があるのは今だけだ。これを逃したら、俺を待っているのは、最近はすっかり体の接触を嫌がり、たまのセックスの際も煩わしげに目を閉じなんの反応もしない嫁との交わりだけだ。

(結局、露見さえしなければ犯罪は無かったも同じだ。やつの口を封じて、押さえ込むことさえできれば…)

太田は化学準備室の窓から校庭を見下ろした。

太田の勤務する城南高校の校舎はS棟N棟の二棟建てで、N棟には1Fに来客用玄関、事務室、校長室、会議室、保健室等があり、２F以上が生徒の学ぶホームルーム(教室)という構造になっている。それに対しN棟は美術室、書道室、音楽室、調理室と、理科実験室が二つ、そしてマルチメディア教室、図書室、という造りだ。

国語科、英語科、数学科、体育科、社会科の各職員室は生徒たちの教室の並びに設けられており、非常勤講師も含めればどの科も7、8人が机を並べているが、芸術科と理科・家庭科は、各実習室の脇にある準備室をそのまま職員室として使っている。

同僚の物理の講師は物理準備室を自分の根城としている。また生物の教師は机こそ太田の隣に置かれているが、広報主任を任されている関係で校長室の隣にある広報室で一日の大半を過ごしている。

つまり、朝の全体打ち合わせを終えるとほぼ終日、太田はこの化学準備室で一人で教材準備や採点、作問などのデスクワークをしていることになる。

そんな世と隔絶しているような勤務環境を、明朗で如才のない英語科の島津などはしきりと同情するが、元来人付き合いが余り得意ではなく孤独を好む性格の太田は、内心では清々する、と思っていた。

ここなら仕事の合間にアダルトサイトを観ようと、出会い系サイトにせっせと書き込みをしようと、誰の気兼ねもない。もちろん、学校から貸与されているパソコンでそれ系のサイトを観るような阿呆な真似はしない。持ち歩いている私物のタブレットは、今やすっかりそのためのデバイスになってしまっている。

その化学準備室の窓から校庭を見下ろした太田は、明るい午後の日差しに眼をしばたたかせた。

3Ｆにあるここからは、ほぼ校庭の全景を眼におさめることができる。放課後の校庭からは、運動部の練習に励む生徒たちの掛け声が聞こえてくる。サッカー部の紅白試合で吹かれるホイッスル。テニスコートから聞こえるラリーの音。やや遠くから聞こえる金属音は、一番隅のグラウンドで練習に励む野球部のノックの音か。ハンドボールコート脇のスペースではドリルチームの面々が、顧問の手拍子にあわせポンポンを振りながら片足を肩近くまで上げ、ターンを繰り返す。太田の真上の音楽室からは、やや調子外れな吹奏楽部のチューバの音が響いている。校庭の上には秋晴れの青空が広がり、晩秋の日差しに銀杏の葉が煌めいている。眠くなるような午後だ。

城南高校には、４クラスの普通科に加えて２クラスの生活科学科と、３クラス編成の情報ビジネス科が設けられている。昭和の頃は、歩いてそれぞれ20分もかからない距離に藤が丘女子という家政科の単科校、城南商業という商業科単科校の二つの県立高校があったのだか、近年の少子化による応募者減が顕著になり、県の「選択と集中」の方針したがって城南高校との統廃合が行われた。その際、平成の世に家政科・商業科もないだろう、と言うことで、それぞれ生活科学科、情報ビジネス科、と名称を変えて今に至っている。

城南の普通科は、大手塾の模試を見ても80%合格偏差値は65近いが、情報ビジネスは48、生活科学は44、と勉強に関心のない生徒の受け皿となっている。高校と言うと、普通は入学時に学力で細かく輪切りにされているので均質化が図れているものだが、この学校は偏差値で言えば上下で20も違う生徒が通う重層構造となっている。

それを「面白い」と捉え、城南高校の良さだ、という教師もいる。そういう連中は、昨今流行りの「多様性」という言葉を持ち出し、勉強ひとすじの生徒だけでなく就職する子、専門学校に進む生徒、いろいろなタイプの生徒が集うことで活気が生まれる、という。確かにいくつかの運動部で毎年何人かのインターハイ出場者を輩出したり、サッカー・野球の花形スポーツで、全国大会に行かないまでも私立高の強豪がひしめくこの県でベスト４、ベスト８の常連となっているのはそのお陰だろう、とは思う。

逆にやりづらい、と嘆く者もいた。
太田は後者だ。情報科、生活科学科の理科総合の授業は気が重いどころか苦痛だった。生活科学科は女子のみの募集で、35人×２クラスのほとんどが「今風」の生徒、JK、というやつだ。板書を終えて生徒たちの方を向きなおると、机の下の手元に視線を落としスマホをいじっている者、授業中だというのにも関わらず堂々と鏡を机に置き、ブラッシングや睫毛のカールに余念がない者、机にガバと突っ伏して寝ている者…

その光景に出くわす度に
(無理だ…こいつらに化学や物理を教えるなんて、猿にアルファベットを書かせるのに等しい…)
と絶望的な気分になる。

情報ビジネス科は男女半々だが、このコースの厄介者はどの年にも数人の割合で存在する「やんちゃ」な男子生徒で、不規則発言、授業妨害が恒常化している。数年前、騒ぐくらいならゲームでもやっててくれないか、と発言して校長から叱責された気弱な教師がいたが、太田にはその気持ちは痛いほど分かった。

口の悪い教師は、情報科や生活科学科の授業で困憊すると「さ、口直しに普通科の連中教えてくるか」などとうそぶき教室に向かうが、向学心のある普通科の指導を「口直し」に例えるのは言い得て妙だった。

そんな環境下での中島の存在だ。食い入るように黒板を見つめ、少しでも疑問が残ると職員室を訪ねて質問をぶつける熱心さ、しかも週刊誌のグラビアから抜け出したような美形、ともなれば、どの教師も中島ファンになるのは無理からぬことだ。男性教師のみならず、国語科や英語科の女性教師までもが口を揃えて中島を誉めそやすのも、彼女の学問に対する真摯さの証しだった。

わずかに前かがみになり、小首を傾げて教師の説明に聞き入る姿。髪が視野を遮らないように人差し指と中指で耳の上に懸ける。前傾姿勢になっているので、スカートからのぞく色白の膝の裏がはっきりと見える。

ふるいつきたくなるような、と言うのはああいう様子を言うのだろう。賭けてもいい。この学校の40代以下の男性教師は、想像の中で一度ならず中島結衣奈の制服を脱がせ、思うまま犯している。

(だが…)

俺たちは揃いも揃ってやつに化かされていたのか…

再び彼の肉茎が硬くなる。
(いかん…。成績入力までは今日中に済ませておこう。この分なら7時までには上がれそうだ。帰りにTSUTAYAにでも寄るか…)